【終演】純文学のススメ
疾駆猿×明治座アートクリエイト第一回朗読劇公演「純文学のススメ」。
ご来場いただきまして、誠にありがとうございました。
「わかりやすかった」「見やすかった」「おもしろかった」と、思った以上のご好評を頂きまして、とても嬉しいです。
今回小沼が出演させて頂きました【太宰】チームは、以下の4編をお届け致しました。
(青空文庫のリンクを貼ります。ご覧になった方は是非、原文を読んでみてくださいね。)
小沼がメインで出演させて頂いたのは「雀」と「貨幣」。
「雀」では「私(修治)」として朗読パートを主に担当させて頂き、「貨幣」では「お酌の女」としてがっつりお芝居パートを担当させて頂いたような形でした。
あ、ちなみに「葉桜と魔笛」で、幕裏で口笛吹いてたのはあたしです(笑)
自殺という死因や、「斜陽」という代表作の印象により、何となく敬遠してしまっていた太宰治。(何か「走れメロス」は作品と作者が自分の中であんまり紐づいていない)
ただでさえ、重たく読みづらそうという食わず嫌いをしてしまっていた純文学ですが、この公演に関われたおかげで、太宰と芥川という二人の文豪の素晴らしさ、そしてその作品の面白さを知ることが出来ました。
そして、信也さんの脚色・演出センスにも感服。
「貨幣」の冒頭で喧嘩をしていた大工さんとおかみさんのやり取りは、同じく太宰の書いた「桜桃」という短編から引っ張ってきている、とかね。
なるほど、ここはこうしたのか、とか、原文と脚本との対比がかなり面白かったです。
「雀」も「貨幣」も、役回りはまったく違ったけどどちらもとても楽しくやらせて頂きました。
「語り手」というポジションでの「朗読」、結構相性いいんじゃないかしら、って自分では思ってたのですが、観て下さった方はどう感じて下さったかな。
声をお褒め下さる方も多く、とっても嬉しかったです✨
小さい場所だからこそ「空間を広げる」って事を意識しながらやっていたのだけど、少しでもそれが感じて頂けてたらいいなぁ。
しかし、せっかく外套着れて喜んでたのに写真撮り忘れた(´・ω・`)
「貨幣」での「お酌の女」は、よしつねくん演じる大尉が「女を買う」という表現をしていたとおり、所謂「女郎」「遊女」だったわけで、マルグリットに引き続き、何だか今年は「性を生業にする女」の役に縁があるような気がします。
11月の舞台もデリヘル嬢の役だし。
置いといて。
「百円札」の視点から見る人間を描いた「貨幣」。
ラストまで読んだ時は、こんなにもあたたかい話を書く人だったのか、とまずそれに驚きました。
だけれど、「雀」も然り、戦時中からこんなことを考えられるほどに感受性が豊かだったら、それはそれは辛かったろうなぁ、と思います。
だって、「戦争反対」なんて言おうものなら犯罪者になる時代だったんだもの。
「狐がどうしたっていうんだい。いやなら来なけれあいいじゃないか。いまの日本で、こうして酒を飲んで女にふざけているのは、お前たちだけだよ。お前の給料は、どこから出てるんだ。考えても見ろ。あたしたちの稼ぎの大半は、おかみに差し上げているんだ。おかみはその金をお前たちにやって、こうして料理屋で飲ませているんだ。馬鹿にするな。女だもの、子供だって出来るさ。いま乳呑児をかかえている女は、どんなにつらい思いをしているか、お前たちにはわかるまい。あたしたちの乳房からはもう、一滴の乳も出ないんだよ。からの乳房をピチャピチャ吸って、いや、もうこのごろは吸う力さえないんだ。ああ、そうだよ、狐の子だよ。あごがとがって、皺だらけの顔で一日中ヒイヒイ泣いているんだ。見せてあげましょうかね。それでも、あたしたちは我慢しているんだ。それをお前たちは、なんだい」
「貨幣」
身体なんぞ売りたくない。
けれど、買う男が居なければ生き延びることも難しい。
満足な食事も出来ず、そうして乳も出なくなり、幼い我が子も痩せ衰えて。
それでも、どうにか生きていくしかない。
日常と呼ぶにはあまりにも過酷な、火の雨の中で。
想像は、あくまで想像でしかないのだな、と改めて感じました。
何とどう置き換えても、戦時中の辛さも苦しも悲しさも、あたしにはわからない。
だけれど、わからないからこそやる意味があるのだろうな、ということも改めて感じました。
戦争を題材にしたものを演じる時、当時の悲惨さや惨さ、辛さ、悲しみや怒りを伝えようとすることをあたしは好みません。
それと同時に「今幸せであるということを大切にしようと思った」とか「英霊たちの犠牲の上に成り立っていることを忘れないようにしようと思う」とか、まるでテンプレートのような感想が溢れることも好みません。
当事者の代わりに悲劇をドヤってお涙頂戴ものになってしまうこと、悲劇に感動している自分に対して悦に入ること、それは気持ちの悪い連鎖でしかない。
勿論、すべてがそうだとは思いません。
けれど、その傾向が強いのは気のせいではない気がしています。
悲惨な事実を伝えたい、ただそれだけならば、おそらく作品にする必要は無い。
僕はその日から、なんとしても、もう戦争はいやになった。人の皮膚に少しでも傷をつけるのがいやになった。人間は雀じゃないんだ。そうして、わが子を傷つけられた親の、あの怒りの眼つき。戦争は、君、たしかに悪いものだ。
僕はべつにサジストではない。その傾向は僕には無かった。しかし、あの日に、人を傷つけた。それはきっと、戦地の宿酔(ふつかよい)にちがいないのだ。僕は戦地に於いて、敵兵を傷つけた。しかし、僕は、やはり自己喪失をしていたのであろうか、それに就いての反省は無かった。戦争を否定する気は起らなかった。けれども、殺戮の宿酔を内地まで持って来て、わずかにその片鱗をあらわしかけた時、それがどんなに悪質のものであったか、イヤになるほどはっきり知らされた。妙なものだよ。やはり、内地では生活の密度が濃いからであろうか。日本人というのは、外国へ行くと足が浮いて、その生活が空転するという宿命を持っているのであろうか。内地にいる時と、外地にいる時と、自分ながら、まるでもう人が違っているような気がして、われとわが股(もも)を抓ってみたくなるような思いだ。
「雀」
たとえば「雀」という作品にこもった太宰の思いや願い。
登場人物である加藤慶四郎の思いや願い。
それを「表現」に昇華することは、過去を無理矢理「今」にねじ込んで悲惨さを叫ぶことではないはず。
それは、戦争モノに限らず、実在した人物を物語る時にも同じなのだ、と思います。
悲劇だろうが、喜劇だろうが。
何はともあれ、「純文学」というものに触れるきっかけになっていたら幸い。
お気に入りの作品が見つかったりしたら、とても素敵ですね。
小沼はと言えば、朗読ツイキャスでも始めてみようかしら、なんてうっすら思ったりしています。
予定は未定だけどねw